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ちょっとした自叙伝(2018年6月)

 これは2018年6月2日に行った有田正広先生とのデュオ・リサイタル(フルートの肖像Vol.14)のプログラムに私が書いた文章でです。全文転載しました。写真は今回追加したものです。

 

◆りり子誕生

 今回の公演は尊敬し、お慕いする恩師有田先生とのデュエットです。先生との初めての出会いからなんと30年近くが経とうとしています。今回の企画を考えているといろいろ人生を振り返ったり、古楽について考えたりしたので、一つの節目にちょっとした自叙伝など書いてみようかと思います。

 日本フルート界の黎明期に多くの素晴らしいお弟子さんを輩出され多大な功績を残されたフルート奏者の林リリ子先生は、有田先生の師匠でもいらっしゃいますが、私の母も末席ながらリリ子先生の弟子でした。私の姉が生まれた時に母が先生に「先生のお名前素敵だから娘につけようかと思ったけど、あまりに恐れ多いのでやめました」とつい言ってしまったところ、「私の名前は私の専売特許じゃないわよ。次に娘が生まれたらリリ子にしなさい」と言われたそうです。先生の言うことは絶対だけど娘に「リリ子」なんてつけたら叱れなくなるから、どうか男の子が生まれますようにと母は祈ったようですが、結局二人目も運悪く(?)娘が生まれ「りり子」と名付けられました。

 残念ながらリリ子先生は私が1歳になる前に若くして亡くなられたため、お会いすることはできませんでしたが、母が「りり子」が生まれたことを報告すると大変喜んでくださったそうです。

 

◆素直な子供時代

 そんな名前のおかげで、私の周囲では「この子は将来フルート奏者になるものだ」という雰囲気が生まれた時から漂っていました。といっても母自身はそんな気はあまりなく、自分の練習時間を確保するために、フルートのケースがカチッと開いたらお気に入りの毛布を取りに行き、フルートの音が聞こえたらすぐに昼寝をするという習慣を子供にしつけることの方に熱心だったようで、長らくフルートのコンサートに行くとどうしても眠くなるという習慣がとれず苦労したものです。

 小学4年生になってフルートに手が届くようになったころ、私は自然にフルートを母に習い始めました。母と子ではうまくいかないという話をよく聞きますが、かなり精神的な成長が遅く、素直な性格だったもので、レッスン中によく泣きべそはかいていましたが、特に何の問題も起きず、楽しく健やかに高校生まで成長していきました。

 

◆自我の芽生え

 さすがに高校生ともなると遅まきながら少し自我が芽生え始めます。反抗期が全くなかったため、「親にさせられたフルートなんてもういやだ!」などと思うことは一度もありませんでしたが、なぜ自分は音楽をしているのだろうか、音楽って何だろう、自分は音楽で何がしたいのだろうなどということを少し考え始めました。

 また大学受験を控え自分がどこで誰と何を学びたいのか、地元の福岡で井の中の蛙だった私は皆目見当もつかなかったので、高校時代はできるだけいろんな講習会やコンクールを受けたりして、先生探しを試みました。なにせまだ演奏できるレパートリーが非常に限られていたため、同じ曲をいろんな先生方に見ていただいたのですが、どの先生もまず口をそろえておっしゃったのは、「大きな音で吹きなさい」ということです。それ以外のことを言わない先生も多く、音が大きければいい演奏なのか?他にもっと音楽を豊かにする方法はないのだろうか、というのは当時の私の大きな疑問でした。中にはもっと具体的にここはもっと弱く、ここははっきり、ここは弱くなど指示をくれる先生もいました。でも弱く吹かなければならない場所の指示は先生によってそれぞれで、なぜそこを弱く吹かなければならないかの理由を説明してくれることはなかったため、私はどの先生の言うことを信じればよいのかわからなくなり、いい音楽とは何かだんだん分からなくなっていきました。

 

◆有田先生との出会い

 有田先生と初めて出会ったのは高校2年生の時です。当時の私は、トラヴェルソはもちろん、古楽という言葉もよく知らず、聴く機会もなかったので特に興味もありませんでした。ちょうどその時期、有田先生が日本初の本格的なピリオド楽器によるオーケストラ「東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ」を立ち上げ、スポンサーが福岡の企業だったため、旗揚げ公演が東京と福岡の両方で行われることになりました。

 といっても、当時の福岡では古楽を知っている人がほとんどいなかったため、旗揚げ公演の前に1年かけて様々な古楽啓蒙活動が福岡で行われました。その一環として行われた有田先生の公開レッスンをモダン・フルートで受ける機会がありました。それは私にとってまさに目から鱗の衝撃的なレッスンでした。まず先生は大きな音で吹くことに意味はないとおっしゃり、私はのけぞります。当時のフルートは大きな音は出ないけれども繊細な表現ができた。だからより小さな音をコントロールすることでより大きな表現できるというのです。ああ、私が求めていたのはこれだと思いました。また、先生は曲想を指示する時には必ず理論的な根拠を説明してくださいました。ここを大きくした方がいいのは、当時の演奏習慣では上行型は喜びを表すからとか、半音階は当時の楽器では非常に凸凹になるから緊張感をもってとか、聴くことすべてが新鮮でその言葉にぐいぐいと引きつけられました。

 大学でこんな先生に習えたらいいのにと思ったものの、その当時先生は大学ではトラヴェルソしか教えていらっしゃらなかったので、その段階で即トラヴェルソに転向したいという発想はありませんでした。

 

◆ トラヴェルソの道へ

 転機が訪れたのは高校3年生になる直前の春休みでした。あの有名なパリ音楽院の教授ばかりが来る講習会があるというので、これはきっと素晴らしい音楽に出会えるに違いないとわくわくしながら受けに行きました。しかしながらそこで待っていたのは、スポ根漫画も真っ青なほど厳しい基礎練習の毎日でした。午前中は受講者全員一斉にひたすらスケール練習。午後からの個人レッスンで言われるのは、「そこ、指まわってない。まずレミレミだけ。ミファミファだけ。レミファミ10回間違えなくなるまで、はいどうぞ。あっ間違えた。はい1から数え直しね。」というのを延々にさせられ、音楽的な注意は一切ありませんでした。

 世界最高峰といわれている学校のレッスンがこれなのか、ということに私は非常にショックを受けました。あとから聞いた話によると、その先生は技術専門のアシスタントの先生で、音楽的なことはメインの先生がおっしゃるから、その先生のレッスンは技術に徹しているとことでしたが、音楽とは何かを悩んでいる若者にとって、そのレッスンは理想とする音楽を破壊するに等しいものでした。ただ指が正確に早く動くのがいい音楽なのか。間違えないことが音楽の目的なのだろうか。少なくとも私は技術をひけらかすことで聴く人を圧倒するような演奏家になりたくないし、美しいものを人と共感できる音楽家になりたい。でもどこに行けばそれが勉強できるの?というのが当時の私の悶々とした悩みでした。

 

◆ 旗揚げ公演

 そんな悩める時期に聴いたのが1年の準備期間を経て披露された「東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ」の旗揚げ公演でした。とにかく日本初ということで演奏家の方々も入念に準備をし、気合十分で臨んだと後からメンバーの皆さんに聞きましたが、3日間に渡って行われた演奏は私がそれまで聞いたどのコンサートよりも熱気にあふれ生き生きと輝いていました。会場はアンサンブルの喜びに満ちあふれ、演奏家一人一人の音楽への情熱がほとばしっていました。なんだかよく分からないけど、すごい!私、これ好きかも。こんな人たちになりたいかも、と思いました。

 それ以降次第に私の気持ちはトラヴェルソへと傾いていき、高校3年生の秋についに憧れの有田先生につくためにトラヴェルソ転向を決め。そこからバタバタと3ヶ月ぐらいで受験の準備をし、桐朋学園古楽器科に無事入学をします。

 

◆桐朋学園時代

 トラヴェルソ転向を決意した時、私のバロック音楽のイメージはバッハ、テレマン、ヘンデルくらいしかありませんでした。クープラン、オトテール、ブラヴェなどの名前も知らずブリュヘンも、アーノンクールも、クイケン兄弟も聞いたことがなく、古楽が何を目指しているのかも何も知らない状態でした。とにかく勢いで入学してしまったものですから、入学してからが大変です。

 それまでは音楽の勉強といえば笛を一人で黙々と練習するというのがメインでしたが、古楽科の雰囲気は全く違っており、「クヴァンツ(バロックで最も重要なフルートの教則本)」、「グローブ(当時まだ英語版しかなかった大音楽辞典)」「イネガール」「フランス様式」など聞いたこともない言葉が当たり前のように飛び交っていました。勇気を出して、分からないことを恐る恐る先生に質問すれば、まず自分で調べなさいと読むべき本を指示してくれるのですが、図書館からその本を借りてみれば、ドイツ語の上に亀の子文字(草書体のような古いアルファベットで一般人には全く読めない)で辞書すら引けない。などなど、これはとんでもないところに来てしまったぞというのが当初の感想でした。

 でも、新しいことを知るというのはとても楽しくて、とにかく無我夢中でした。バロック音楽の楽譜には音符以外の情報があまりに少ないので、例えばバッハを演奏するなら、楽譜には書かれていないけれども当時の人が当たり前のようにしていた演奏習慣をまず知らなければいけませんし、その曲がどのような状況で演奏するために書かれたのか、バッハがどんな思いを込めて書いたのかを知る必要があります。となると、当時の社会状況や思想、バッハを取り巻く環境、バッハの人となりも知らなければいけません。

 そして、大学2年の時、私は気が付いたのです。西洋音楽をするならまず西洋を知らなければいけないと。まずは現代にも残る西洋の生活習慣、言葉、思考方法、それぞれの国の違いなどを知らなければ、18世紀のヨーロッパなんて分かるはずもありません。

 

◆オランダ留学時代

 そこで、3年生の秋から大学卒業を待たずにオランダへ留学してしまいました。西洋の中で生活すれば、自分がいかに日本人であり、日本人以外にはなれないということを日々発見させられます。留学中、繰り返し「なんで日本人のあなたが西洋のそれも古い音楽をやるの?」と質問されました。龍笛を勉強している西洋人に出会ったら私も同じことを質問したくなるに違いありません。でもその答えを私は長い間見つけることができませんでした。

 60年代に始まった古楽復興運動が目指したものは古い楽器の再現だけではありません。バッハの時代に演奏された音楽そのものの再現でした。だからこそ日本人の私ができることの限界を感じ、古楽をすることの意義を見失っていきました。

 しかしながら留学を終える頃にようやく一つの結論たどり着きます。いいのです。好きだからするのです。そして私にできることは、「私ができることを私がやりたいようにすること」だけだと気がつきました。

 バッハが意図したようなドイツ人的な演奏はできないかもしれません。でもそもそも音楽に正否はないのです。じゃあ、なぜモダン・フルートではなく不自由なバロック・フルートを使って演奏するのかといえば、それが私にとって一番自然だからです。時代に合わない楽器を使って演奏しようとすると、やりたいことが表現できないからです。

 もし私が俳優で、西郷隆盛の役を演じることになったとしたら、たぶん私は時間の許す限り徹底的に西郷隆盛の人物像について調べ上げ、鹿児島弁を練習し、当時の所作を身に着けようとすると思います。背格好も違うし、本物の西郷さんには絶対なれませんが、それでもせっかく演じるなら、できるかぎり西郷さんに近づきたい。それが私にとっての古楽です。バッハの望んでいた通りの音楽が再現できるなんて思っていませんが、できるだけバッハに近づきたい。そのためにできる努力は、できるだけしたい。それだけです。

 

◆留学後から現在へ

 帰国後はバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)のツアーでヨーロッパやアメリカで演奏する機会が増えました。BCJは日本よりもヨーロッパの方が知名度が高く、どこに行ってもいつも満席状態で、すごい熱狂をもって迎えられました。それは日本人のアイデンティティに悩んでいた私にとって大きな力になりました。やっているのは西洋の音楽だけど、日本人だからこそできることもあるのだ。感動の力は世界共通なのだという確信を得ることができました。

 私が古楽を始めるきっかけとなった有田先生のオーケストラ、東京バッハ・モーツァルト・オーケストラでも演奏する機会が増えました。このオーケストラは途中でクラシカル・プレーヤーズ東京と名前を変え、レパートリーもベートヴェンやショパンなどロマン派の音楽にまで拡大していきました。新しいことに次々と挑戦される先生についていくのは大変で、毎回必死で多鍵式フルートを練習しました。

 

◆有田先生から学んだこと

 先生から直接教えを受けたのは3年という短い期間でしたが、先生から受けた影響は人生が変わるほど大きなもので、その影響は現在までずっと続いています。それは先生が教えてくださったことが、単なるフルートの演奏ではなく、音楽とは何か、音楽家とは何かということだったからだと思います。私が先生の背中を見つめ続けて学んだ一番大事なことは「音楽に真摯に向き合い、探求し続ける姿勢」だと思っています。

 まだまだ分からないことだらけで、知れば知るほど泥沼にはまっていくようですが、音楽の素晴らしさを教えてくださった有田先生には本当に感謝してもしきれません。ちゃんと言ったことがないのでこの場を借りて御礼申し上げます。有田先生、新しい世界への扉を開いてくださって本当にありがとうございました!

左は高校3年生、トラヴェルソに転向した直後の写真です。(1991年)
右は有田先生が音楽監督をしておられた「おぐに古楽音楽祭」の第3回目(1992年)の写真。私が桐朋学園大学1年生の時で、フリーステージに出してもらいました。合奏の相手は先輩の菅きよみさん、チェンバロは東園子さんです。

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