私から見た「前田先生」像(2004年3月)
「フルートによせて第3巻」(パンの会発行)に掲載の文章
今回はかなりプライベートなお話です。私の母は長年、家でフルートを教えています。私が生まれる前のことですが、林りり子先生が月に一度、福岡に教えに来られていました。林先生は、有田正広先生をはじめとして、現在の日本のフルート界を代表する非常に立派なお弟子さんを沢山育てられた方ですが、「フルートおさらい会」というのを定期的に開いて、弟子を厳しく訓練されていました。母はそれをまねて、年に2回「フルート勉強会」というのを開いてきました。それがこの3月で、60回目を迎えることになったのです!
ひとくちに60回といっても、これはたいへんなことですよ。私など、この前レッスンをしている人たちのために、はじめて発表会を開きましたが、1回だけでたいへんなエネルギーを使ってしまいました。母は18世紀音楽祭協会の事務局長をしていますが、その合間を縫って、30年間に60回も発表会を開いてきたというのは、ギネスブックものかもしれません。私なども小さい頃から、いつもこの「フルート勉強会」を目標に育ってきました。
下の文章はこの「フルート勉強会」の60回記念として、弟子達のあいだで文集を発刊するというので書いたものです。
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私から見た「前田先生」像
みなさんの「前田先生」のイメージといえば、いつも明るくパワフルで、どんな悩みも真摯に聞いてくれる人といったところでしょうか?彼女はみなさんも御承知の通り、時にはオープンすぎるほど全く裏表のない人間ですから、私にとっての母親像もみなさんにとっての「前田先生」像もあまり違わないかと思います。でも、せっかくの機会ですので、子供から見た「前田先生」との思い出について書いてみようと思います。
私が生まれたころ、母は2才児の姉を抱えながら、主婦、演奏活動、そしてフルート教師としてすでに大変パワフルな毎日を送っていた様です。8ヶ月の私をお腹に抱えて九響のコンサートに出演し、私が生まれた日も、実はリハーサルの予定が入っていたけど当日キャンセルしたという話を聞きました。
その母が私にまず施した教育は、母がフルートケースを開けたら昼夜時間を問わず、とにかく「すぐに寝るように」というものでした。おかげさまで、私は毎日たっぷり睡眠をとってすくすくと育つことができました。でも、フルートを聞くと眠くなるという条件反射がすっかり身についてしまい、大きくなってからもフルートのコンサートに行くと必ず猛烈な睡魔が私を襲い、「チケット、高かったのに寝ちゃうなんてもったいない!」と母からは何度も叱られました。
私がフルートを始めたのは、小学4年生になったばかりの春のことでした。母は一度も私に「フルートティストになりなさい」と言ったことはありません。でも「りり子先生」からいただいた名前のせいで、小さい時からいろんな人に「りりちゃんは大きくなったらフルーティストになるの?」とよく聞かれました。そのためか、母から「そろそろフルート始めてみる?」といわれた時に、私はすでに「自分は将来フルーティストになるのだ」とわけも分からず確信しており、フルートが持てるぐらい体が大きくなったら母にフルートを習うということは、私にとって、6歳になれば子供は小学校に行くということと同じくらい当たり前のことでした。
母親が先生だと喧嘩をしてしまって、レッスンがうまくいかないという話をよく聞きますが、私と母の場合、母のおおらかな性格のせいか、それとも一度も反抗期がこなかった私の素直すぎる性格のせいか、あまり問題はなかったような気がします。レッスンがめったになかったことを除いては・・・。たぶん、私ほどレッスンが少ない生徒は他にいなかったのではないでしょうか?
年をとったせいか、最近のレッスンでは昔からは想像もつかないほど丸くなっていますが、20年前の「前田先生」のレッスンは、林りり子先生のスパルタ方式を継承していて、かなり厳しく、怖いものでした。月謝をいただいている生徒さんたちに対して、確実に上達させてよりよい音楽大学に合格させなければならないという強い責任感を感じていたようで、毎週、時には何時間にも及ぶほど熱心にレッスンをしていました。でも、月謝を払わない私のレッスンのことは、いつもついうっかり忘れてしまっていたようで、「1ヶ月レッスンがない」なんてことはよくあることでした。特に勉強会前は、生徒さんたちのことで大忙しになってしまうため、私のことなどは頭から完全に抜け落ちてしまい、直前のピアノ合わせで久しぶりに我が子の演奏を聴き、暗譜はできていない、音は間違える、指はまわらないというあまりにひどい状態に呆然として、勉強会前日の深夜に大慌てで特訓などということも何度もありました。
私が実家にいた頃の母の夜の日課は、7時過ぎまでレッスンで、その後夕食の準備、8時過ぎに父が帰宅し家族で夕食、デザートを食べたあと、長電話の合間を縫って夕食の片づけと翌日のお弁当の準備でした。私のレッスンは、その夕食のかたづけ後に行われるため、夜の10時を過ぎて始まるのが普通でした。それも、電話の嵐に中断されながら・・・。お互い、一日の疲れがどっと押し寄せてくる時間帯で、レッスン中にフルートを吹きながら時々寝てしまい、足がガクッとなったり、どこを吹いていたか分からなくなったり、吹き終わって何のコメントもないなと思ったら、母の方が寝ていたりと、なかなかサバイバルなレッスンでした。
私たち母子の師弟関係がうまくいった理由の一つは、母の放任主義にあったと思います。通常親子では日々の練習量や練習の仕方が筒抜けになってしまうため、つい横から口を出したくなったり、遠慮がない分、厳しくなりすぎてしまったり、自分のかなえられなかった夢を子供に託して、過剰な期待をかけてしまったりしがちです。しかし母は、人前で演奏する機会をできるだけ沢山作り、夏季音楽講習や国内外の高名なフルート奏者のレッスン、コンクールやいいコンサートなど、福岡にいながらにしてよくぞあそこまでできたものだと思うほど、子供がのびるのに必要な刺激的な環境を整え、あとはその中に私を放り込み、一切を私の自主性にまかせて放任しました。
私が高校3年生の春、「フルートをやめて、トラベルソに転向しようかなと思うんだけど・・・」と、母に相談したとき、母はまず「あなたがしたいことをすればいいよ」といいました。その時私は「せっかく相談してるのに、答えがそれじゃあ相談している意味がない!」と腹を立ててしまったのですが、その言葉こそが母の教育方針そのものだったのでしょう。人がしたいことをして生きる。理想ではありますが、実行するのは簡単ではありません。子供を本当に信頼してくれていたからこその言葉だったのだと、今では心から感謝をしています。
「親の苦労、子知らず」といいますが、今、自分自身が生徒を教える立場になって、ようやく我が母のフルート教師としての偉大さが分かるようになってきました。たぶん母よりも知識があり、教え方がうまい人は世の中にいくらでもいるでしょう。でも「前田先生」ほどフルートを通して、音楽のすばらしさ、人生の楽しさ、そして生きていくためのパワーを生徒に伝えることができるフルート教師は、そうたくさんはいないと思います。こんなすてきな先生と巡り会えてよかったなぁ・・・と子供の私が言うのも変ですが、本当にいつもありがとう。まだまだ新米ですが、少しでも母のような生徒思いの先生に近づけるよう、精進したいと思っています。これからもよろしくね!
フルートを始めた頃(たぶん小学5年生)の私をモデルに、父が描いてくれたアクリル絵です。