バルトルド・クイケン・・・深い人間性のあふれる理知な演奏(2001年5月)
少し古い文章で恐縮ですが、私のフルートの師バルトルド・クイケン先生について、ソティエが発行している音楽通信に1年半ほど前に書いた文章をご紹介します。
バルトルド・クイケン・・・深い人間性のあふれる理知な演奏
(季刊ソティエ 音楽通信「ヴレ」 第41号 1999年12月発行より引用)
もう6年も前のことですが、私がオランダに留学してバルトルドの弟子になりたてのころ、先輩達のバルトルドに対する心酔ぶりに驚きました。「彼のように思慮深く、知識が広く、道理にかなった音楽家はいない、彼こそがパーフェクトな先生だ」と6人いた先輩が全員口をそろえて言うのです。この世の中にパーフェクトな人間なんていないと信じていた私は、心の中で「おおげさにいっちゃって」と笑っていました。ところが世の中にはそういう人が本当にいるのです。知れば知るほどその素晴らしさに驚嘆してしまうような人間が。
彼のレッスンには不思議な説得力があります。他の人に言われれば聞き流してしまうようなことも、彼に言われるといちいち「そうか、そうだったのか」となぜか納得してしまうのです。それは彼の言葉が感性だけに頼らず、常に豊かな知識と整然とした理論、深い洞察力や細やかな心遣いに彩られているからでしょう。
まずは豊かなその知識。古楽というのは作曲家が生きていた時代の、現在ではもう忘れ去られてしまった演奏習慣や楽器を復活させることによって、作曲家の意図により近づこうという試みです。音楽は瞬間の芸術で、CDのなかった時代の音楽を実際に聴くことはできません。私たちにできることは、その時代の楽器と、その当時に書かれた書物の記述を手がかりに再創造していくことだけです。さて、我らがバルトルドですが、フルートに関する本だけに限らず、18世紀に書かれた音楽理論書で、彼の読んでいないものが一体あるのでしょうか。生徒のどんな質問もたちどころに、「何年にだれそれはこう言っている」と、確実な出版年や典拠などとともに答えてくれます。そのとめどなく湧き出てくる知識は、18世紀の百科全書派時代に精通しているだけあって、まさしく「歩く辞書」です。またそれだけの研究は、蘭、仏、英、独、伊、ラテン語にわたる彼の自在な語学力なくしてはありえなかったでしょう。
「すべての音のすべての瞬間に、あなたの意志が宿るように。自動的な演奏はつまらない」とバルトルドはよく言います。ではそのためには何をすべきなのか。バルトルド曰く「準備だよ。まずはその音をどのように演奏したいのか、100%あなた自身が知っていること。そして、その音を演奏する前に、その音のためのすべての準備が終わっていること」。その態度は彼の演奏にはもちろん、教え方にもよく反映しています。彼が何か言うときには、いつもその意志が隅々にまで行き渡っています。彼の頭の中は常に理路整然と整理されているらしく、中途半端な考えで人に話し始めたりはしないのです。それで、彼のアドバイスはいつも論旨明快で、非常にわかりやすいのです。
人は一生の間に何度ぐらい、自分の根底から揺さぶられるような心を打つ言葉に出会うものでしょうか。彼のレッスンを受けていると、そんな経験をよくします。それはもちろん彼の人間性の深さがなせるわざなのですが、彼が想像もつかないような広い視野からいつも全体を見渡し、たくさんある選択肢の中で、その時その人が一番必要としている言葉を、その人が一番納得しやすい形で与えてくれるからでもあるのでしょう。往々にして、彼のレッスンは実に細かくなります。1時間のレッスンで8小節しか進まないこともあれば、たった一音についての議論で終わってしまうこともあります。とにかく誰も気づかないような細部の細部にまでこだわるのです。でも、そこにはけっして病的な神経質さはありません。常に全体像を見極めることができるからこそ、隅々にまで神経を行き渡らせる余裕があるのでしょう。「第1回福岡古楽音楽祭」のために、今年の9月バルトルドが来日した折、私は恩師とステージで共演という貴重な体験をしました。普段のレッスンから想像して、一体どんなに入念なリハーサルをするんだろうと思っていたところ、意外にもほとんどしないのです。事前に何か決めたりはしないのです。ところが、いざ本番となると、次から次へと素晴らしい、でも耳新しいアイデアを繰り出してくるのです。「えっ、そんな話聞いてないよう!」なんて、ぼやいている場合ではありません。私はもう全身耳になって、必死に彼に合わせました。しかし、曲の構造上から見ても、いつもバルトルドの受け身にまわっているわけにもいかないところが、あります。負けてはならじと、こちらからも攻撃をしかけます。これが本当のアンサンブルなのでしょう。まさに古楽の醍醐味です。演奏が終わって「なかなかおもしろかったね」と言われたときには、とても嬉しかったです。
彼はかなり日本びいきで、母国の次に日本が好きだといいます。普段は菜食主義で肉も魚も食べませんが、日本にいるときだけは主義を転向してしまうほどの日本料理ファンでもあります。結婚25周年の記念旅行はぜひ日本でということで、今回の福岡での音楽祭にはご夫人も同行し、音楽祭の後10日ほど日本各地を旅行しました。九州の自然に触れたいと言うバルトルド達について私も一緒に、阿蘇、湯布院、唐津などを廻り、普段なかなか触れる機会のない、私人としてのバルトルドを知る機会を得ました。そういった場所でのバルトルドは、自然と家族を心から愛し、また謙虚で誠実で、好奇心に富み、まるで青年のように純粋な心を持ち続けている、とても繊細な感激屋さんでした。
太宰府天満宮にお参りしたときには、宮司さんから直々に日本の文化、宗教観についてのお話や、龍笛、篳篥の実演を聴く機会がありました。天満宮の方々の温かいもてなしと、日本人の古いものや自然に対する敬愛の念に感激したバルトルドは、予定外のことでしたが、その本殿で日本の神様に向かってなんとトラヴェルソの奉納演奏を行ったのです!私はひとすじの邪気も混じらない、凛とした真摯な演奏を一生忘れないでしょう。まさしく神にささげるにふさわしい演奏でした。演奏の後、バルトルドを見ると、彼の目にも涙が浮かんでいたようでした。緻密で堅固な構成感を包み込むような、あのひたすらにやさしく美しい音色と音楽性は、やはりこのような彼の美しい人間性から来ているに違いありません。
90年代に入ったころから、多くの古楽奏者達の目が急速にロマン派に向けられはじめました。しかし、彼はすぐに流行に飛び乗ろうとはしませんでした。「なぜ?」と訊くと「僕にはまだ知るべきことがたくさんあるから」と答えたのを覚えています。その彼が今年シューベルトのCDをリリースし、またドビュッシーの録音も終えたそうです。彼の探求心は飽くことを知りません。彼は、かつてまだ誰も知らなかったトラヴェルソの演奏方法を独学で編み出したころと同じ情熱を持って、これから先もフルート、そして音楽とは何かを追求し続けていくことでしょう。
第1回福岡古楽音楽祭でクイケン先生と2重奏をしたときのものです